自伐型林業家紹介
大谷訓大「世界を旅して、故郷で出会った自伐の道と人生の師」(鳥取県智頭町)
鳥取県智頭町で自伐型林業を営む大谷訓大(おおたに・くにひろ)さん(37)は、高校卒業後に大阪や米国などで暮らした後に地元に帰ってきた「Uターン林業家」だ。先代から引き継いだ40ヘクタールの山を管理し、現在では林業の技術が認められ、他の山主や町有林も任されるようになった。
坊主頭にヒゲをたくわえ、ヒップホップを愛する大谷さんは、今では林業という枠を飛び越え、次の時代の智頭を担う若者として活躍している。ただ、そこまでの道のりは、平坦ではなかった。孤独と試行錯誤の日々。そんな時に出会った自伐型林業で、大谷さんは林業技術だけではなく「人生の師」を得た。その道のりと未来とは。(写真:越智貴雄/文:自伐型林業推進協会取材班)
* * *
逃げて、逃げて、逃げ続けていた──。鳥取県智頭町の山中で社員3人、40ヘクタールの森林を管理する大谷訓大さん(37)は、自らの若き時代を、こんな風に話す。
長男として生まれ、大谷家の跡継ぎになることを期待されて育ってきた。大谷さんはそのことについて「洗脳されていた」と笑う。それが、変わったのは中学時代の頃。ヒップホップの音楽と文化に触れてからだ。地元の高校を卒業した後は、迷うことなく仲の良い先輩たちが通う大阪の専門学校への進学を決めた。
(写真:大谷訓大さん)
「その時には家を継ぐ気もなかったので、弟には『俺は自由に生きるから、よろしく頼むよ』なんて言っていました」
都会での生活は忙しく、楽しかった。専門学校の勉強はほどほどにして卒業した後、大阪の流行発信地であるアメ村でアルバイトをしながら音楽活動に精を出した。昼は服屋、夜はお好み焼き店などで働きながら、仕事が終われば友人達が集まるたまり場の家に通うことが日課だった。
だが、そんな日々は突然終わった。いや、正確には、大谷さん自身が終わらせた。
「いつものように部屋でみんなで雑魚寝をしてたんですよね。22、23歳ぐらいの男が、平日の朝に川の字で6人ぐらいで。みんなフリーターとか、今で言うニートでした。それで朝になって『今日は体がしんどいんで、会社休みます』みたいな電話をしてるんですよ。その時、『俺、このままだと沈没していくわ』って思ったんですよね。音楽活動も中途半端で行き詰まっていたのもあったし、その場で『地元帰るわ』って言って、智頭に帰りました。たぶん、その日の夜だったと思う」
(写真:智頭町内の山林)
「えっ」「何で?」と驚く友人たち。ただ、こと時は智頭に住み続けるつもりなわけではなかった。それで、大谷さんは彼らにこう言った。
「俺はアメリカに行く」
智頭に戻った大谷さんは、派遣社員の仕事をしながら資金を貯めた。そして約1年後、宣言通りサンフランシスコに飛び立った。
ヒップホップが生まれた国、アメリカへの旅立ち
アメリカでは一つのことを決めていた。ホームステイをしていた家では日本語を一切使わない。日本人とつるまない。アメリカに行った日本人の中には、日本人と遊んでいるばかりで語学が向上せず、目標もない人がたくさんいたからだ。
「外国生活は孤独で行こうって決めてたんですよね。そのぶん、外国の友達もできた。ホームシックもかかったけど、今、思い返すとそれがよかった」
途中からカナダのバンクーバーに行き、外国生活も10カ月を過ぎていた。だが、外国でお金を稼ぐのは難しい。その頃には手持ちの資金も底が見え始めていた。それだけではない。言葉によるコミュニケーションが難しい異国の地での生活は、想像以上に精神的負担が大きかった。その頃には、夜の10時から流れるNHKのニュースが、唯一のやすらぎだった。
(写真:智頭町内の山林)
アメリカに来た時の決意も、徐々に揺らいできた。特にバンクーバーに行ってからは日本人の友達が増え、英語を使うことが徐々におっくうになっていた。結局は、アメリカで最初に会った「外国で日本人だけでつるんでいるヤツ」に、自分がそうなっているのに気づいた。
「カナダにいた最後の頃は、一番精神的につらかった。本当に、誰とも会いたくなかった」
家族の元を離れて智頭から大阪に行き、そしてアメリカとカナダで生活したものの、“何か”がつかめない日々が続いていた。そして、24歳の時に智頭に戻ることを決意する。
帰国してしばらくしたころ、大谷さんに一つの出会いが訪れる。在野の民俗研究家として知られる結城登美雄さんが、講演会で智頭にやって来た。結城さんは、郷土の歴史を学び、住民が主体となった地域づくりをする「地元学」を提唱し、全国で活動している。大谷さんはこの時、27歳になっていた。
「結城さんがこの時、地域をつくるには『ないものねだりよりも、あるもの探し』って言ったんですよね。この講演を聴いて、自分の中で覚悟が決まった」
(写真:大谷さんの住む那岐地区)
智頭は、町の9割が山林で、かつては「智頭杉」で知られる歴史ある林業地だ。大谷さんの実家には40ヘクタールの山がある。曾祖父が山を買い、祖父がスギとヒノキを植林していた。大谷さんが「あるもの探し」をすると、身近なところに先祖が築いた財産があったことに気づいたのだ。
2010年、父が森林組合の仕事をしていたこともあって、林業の研修を受ける機会があった。そこで林業技術の基本を学び、一人で自宅の裏山に作業道を敷設しはじめた。
2011年に東日本大震災が起きたことも、影響を与えた。食べるもの、飲むものが失われ、人々が住んできた地域が壊滅的な被害を受けた。当時は一人目の息子が生まれたばかりだった。当たり前のことが、いつまでも存在していることを信じてはいけないと思うようになった。
だが、林業は簡単ではない。智頭の山の多くは、砂状で雨に弱い「真砂土(まさど)」でできている。雨が降れば簡単に崩れてしまう。特に作業道の崩壊はひんぱんに起きた。そのたびに道の修復が必要だった。
修復が追いつかず、新しい道の敷設も思うように進まない。一人で仕事をするとメリハリがないので、新しい会社として「皐月屋」を立ち上げ、2014年には震災後に増えていた移住者も雇った。だが、林業の難しさに悩みが尽きない日々は続いた。
自伐型林業を通じて出会った「人生の師」
その頃だった。2015年3月、日本を代表する林業地で知られる奈良県吉野町で、自伐型林業に関するフォーラムが開かれることを知った。翌日には、自伐型林業を展開して100年生以上の木材を大量に育てている清光林業の山の見学会も含まれていて、迷うことなく参加を決めた。行って間違いはなかった。その山を見たときの衝撃は今でも忘れられないという。
「もう、アゴがポカーンでしたよ。とんでもない急斜面を2トントラックでどんどん上がっていく。育っている木は見たことのないような大径木ばかり。森づくりに『美学』があった。それには、木を育てるための道が必要なんだとあらためてわかった。この時ですね。自分で林業をやっていてゴールが見えなかったけど、目標が見えた気がしたんです」
(写真:自伐型林業に必須の作業道作り。路肩補強の木組みに釘を打つ)
清光林業は、会社と個人で保有する1900ヘクタールの山に、1ヘクタールあたり200メートルの高密度な作業道を付けている。吉野の林業は、1970年代からヘリコプターによる集材が進んだが、コストが高いため清光林業は作業道を付ける道を選んだ。岡橋清元(きよちか)会長と清隆相談役の兄弟が、作業道づくりの泰斗として知られる大橋慶三郎さんに弟子入りして、山をつくり上げた。その道は「大橋式作業道」と呼ばれ、持続可能な山林経営を目指す自伐型林業にとって必要不可欠な技術だ。
大谷さんは自伐型林業フォーラムが終わった後、さっそく岡橋清隆さんに自分の山を見てもらった。そして、作業道の路線の付け方、壊れない道づくり、さらには林業の歴史や人としての生き方を学ぶようになった。
「それまで我流でやってきて、誰からも評価されないし、自分でも認めることができなかったんですけど、岡橋さんは初めて『職人と出会った』という感じでした。長い時間軸を持って山づくりを考えていて、『この人たちから山の技術を学びたい』と思いました。仕事だけではなくて、岡橋さんはいろんな経験をされていて、野村さん(清光林業の作業道技術者)も愚直に生きている人です。師匠達に出会えたことで、いろんな人の生き様を学ぶことができました」
2018年7月、この師匠に師事して間違いはなかったと感じたことがあった。西日本一帯を襲った「西日本豪雨」は死者は263人にのぼり、インフラへの打撃も大きかった。智頭町では9割の林道で崩壊が起き、林道が起点になった土砂崩れも多かった。なかには、災害時の雨量を考慮していない誤った方法で付けられた林道から崩壊した箇所も多かった。しかし、大谷さんが岡橋さんの指導の下で敷設した作業道で、崩壊したところはほとんどなかった。
「これまでは雨が降るまでにドキドキしていましたが、今はその心配がほとんどない。去年の豪雨でも、我流で付けた道は崩れましたが、大橋式で付けた道は崩れませんでした」
(写真:山全体に蜘蛛の巣のように道を網羅させ、いつでもどこでも車で目的地まで行けるようにしている)
地元の産業である林業を通じて、新たな出会いもあった。
間伐した木の一部を薪にして、築135年の古民家を改築して昨年にオープンしたゲストハウス兼食堂「楽之(たのし)」に供給している。自家製酵母のパン屋として観光客から人気の「タルマーリー」には、大谷さんがクラフトビールの原料であるホップを栽培して提供している。
(写真:大谷さんの畑で育ったポップ)
ホップの苗を大谷さんに渡したのが、タルマーリーの渡邉格(いたる)さんだ。大谷さんは、自分の山から伐りだした木でホップ栽培の骨組みをつくり、無農薬、無肥料で栽培に成功した。渡邉さんは、こう話す。
「林業家が作ってくれたホップでできあがったビールを飲んで、『これが智頭の土の味なんだ』と感動しました。何と言ったらいいのか、大谷さんのホップを使うとビールの味ではなくるんですよ。1年目は500リットル作ったのですが、あっという間に売り切れてしまいました」
(写真:渡邉格さん(左)と大谷さん)
ちなみに、ホップは無料で提供している。仕事が終わってタルマーリーのビールを飲めれば、それでいいのだという。地域のものを地域でつくり、それを循環させていく。仕事は違っても、目指しているところは同じだ。
(写真:林業で汗を流したあと、自宅から歩いて5分ほどのタルマーリでビールを注ぐ)
自伐型林業をきっかけに新しい仲間が増え、地域の循環が生まれ始めた。大谷さんが愛するヒップホップは、先人達が築いた歴史を守りつつ、新たな要素をダンスやDJなど、新たな要素を次々に取り込んでいって発展してきた。起業家精神に富んだアーティストも多く、麻薬の売人だったJAY-Z(ジェイ・ズィー)は音楽の成功をきっかけにビリオネア(資産10億ドル以上)になり、現在では貧困層のための奨学基金に多額の寄付をしている。大谷さんは、アメリカ生活で育んだヒップホップの精神を、故郷の智頭で実践している。
大谷さんらの奮闘を町も支援している。2015年には町が所有する58ヘクタールの森林を若者に開放した。木をすべて伐ってしまう皆伐方式ではなく、良い木と悪い木を一本ずつ選別し、目先の利益にとらわれずに良い木を残して育てる方式を採用している。現在、智頭町内で林業をするメンバーは約20人に増えた。長い期間を見据えての林業に、山主から「山を任せてよかった」と言われるようになった。
(写真:自伐型林業を智頭町で普及する地域推進組織「智頭ノ森ノ学ビ舎」のメンバーたち。國岡将平さん(右)は町から森林環境譲与税を活用した担い手育成の任務を引き受けている)
高校卒業後に大阪に行き、アメリカとカナダに渡って智頭に戻ってきた大谷さん。世界を見てたどり着いたのが、「自分の山を自分で伐る」という道だった。最後に「自伐とは何か」を聞くと、こう話した。
「うーん、何でしょうねえ……。『美しい景色をつくろう』ということでしょうか。自分も、いろんな所に行って回り道してなかったら、わからなかったと思う。自伐で林業をやっている人は、何かを表現している。それはお金では評価できないもので、人間の美学に訴えるものです。たぶん、自伐は『アート』なんだと思います」
前出の結城登美雄さんは、講演でいつも次の言葉を紹介する。
〈美しい村などはじめからあったわけではない。美しく生きようとする村人がいて、村は美しくなったのである〉
大谷さんが経営する皐月屋は、年に1回、社員全員が1カ月の有給休暇を取得することを目標としている。社員は3人。経営の理念は「基本はゆるく行こう」だという。
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■「新規参入者を呼び込む」鳥取県智頭町が“山林バンク”を創設(自伐協HP)
https://zibatsu.jp/info/news/160402_chizu
■里山の暮らしをアップデート 山間地を支える自伐型林業(フォーブスジャパン)
https://forbesjapan.com/articles/detail/28294
■<動画>【第7回】自伐は「絶望の林業」!?+ケンちゃん見聞録(鳥取県智頭町)
■自伐型林業フォーラムin吉野・その1(2015年3月21日@奈良県)(ZIBATSUチャンネル)
https://youtu.be/nhh2cYi7q4Q
■<自伐型林業家紹介(北海道白老町) >株式会社大西林業「北の大地で、一本の木を見つめ続ける眼差し」
https://zibatsu.jp/person/onishiringyo
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